長崎県・小浜温泉街の人をめぐるガイドマップ 長崎県・小浜温泉街の人をめぐるガイドマップ
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おばまミートアップガイドについて おばまミートアップガイドについて

ようこそ小浜温泉へ。
今日は足湯や温泉、小浜ちゃんぽんを楽しみに
訪れた方も多いと思います。

だけど、よかったらこの街に住む人たちと
少しお話をしてみませんか?
小浜温泉は徒歩20分圏内に
個性的で魅力的な人たちがたくさんいます。
人に惹かれ、この街に移り住んだ人、
移住者に刺激を受けて新しいことを始めた人…
小浜には自分のできることをしっかり理解して
支え合っている人たちばかり。

住む人がおもしろければ、この街はおもしろい。
観光パンフレットに載っていない小浜の新たな魅力を
小浜に住む人たちを通して知って欲しいと思っています。

ようこそ小浜温泉へ。
今日は足湯や温泉、小浜ちゃんぽんを楽し みに訪れた方も多いと思います。

だけど、よかったらこの街に住む人たちと 少しお話をしてみませんか?
小浜温泉は徒歩20分圏内に個性的で魅力 的な人たちがたくさんいます。人に惹かれ、 この街に移り住んだ人、移住者に刺激を受 けて新しいことを始めた人…
小浜には自分のできることをしっかり理解 して支え合っている人たちばかり。

住む人がおもしろければ、この街はおもしろ い。観光パンフレットに載っていない小浜 の新たな魅力を、小浜に住む人たちを通し て知って欲しいと思っています。

小浜の人に会いにいくマップ 小浜の人に会いにいくマップ

会いにいく人たち 会いにいく人たち

小浜で会った人にインタビューしてみました 小浜で会った人にインタビューしてみました

地域が一体となるために縦より横にネットワークを広げる

 私が嫁いだ40年くらい前は旅館と地域の人っていうのは全く別みたいな感じがあって。旅館は旦那様旅館みたいな感じがあったわけね。それをすごく感じたので、旅館の人も地域の商店の人も住んでる人たちも一緒になって、街づくりをしたりとか、いろんな意味でつながっていくっていうかな。
 一番基本になるのは人と人とのつながりとかネットワークづくり。それがやっぱり今も生きてるし、そういうのって切れることなくずっとつながっていって、時間もつながっていくじゃない。できるだけ若い人たちとか他県から来てくれた人が、小浜に溶け込めるようなことをすると、小浜の人もゆくゆくは楽しくなると思うの。小浜は今まではどちらかというと縦の関係が強かったんですけども、組織にしても。私は最初、女性軍の組織8グループぐらいあったのを全部横つなぎにしようと思って「チェンジ小浜の会」を作ったのね。当時のアメリカ大統領選挙に出ていたオバマ大統領を応援したりしたわけ。そういうネットワーク作ってることで、伊勢屋のお客様も地元のお客様も増えて来て、いろいろ繋がることがわかってきました。

お互いを理解し合うことが大きな力になる

 20年ほど前にカナダの合唱団を呼んだんですよ。ハマユリックスホールで、800席あったのを立ち見が出るほど満席にしたんです。商工会、婦人会、JA、美人の会など小浜の中にあった女性団体8団体全部でそれをやったんです。会議だって4、50人でやるからチケット代をいくらにするかとか、いろんな意見が出るんですよ。それをまとめるのも大変でした。ところが、みんなで一緒に大変なことをして、満席になって、最終的に40万円ぐらい利益を出した。それが嬉しくてみんなで涙を流して喜んで、その達成感?それが一番忘れられない。
 そのときに一番勉強になったのは、自分の気持ちと人の気持ちは一緒ではない。だけど、理解し合うとこんなに力になるんだっていうのを経験して、地域づくりとか皆さんで一緒にっていう風につながりました。同じ一つの目標で数の多い人たちが同じ目標に向かってやることに意味がある。女性が集まるとこんなにすごいっていう経験でした。みんな楽しいことが好いとっとね。

若い人たちを信じて、早めに世代交代

 おかげさまで私は大女将になって、今は若女将が頑張ってくれています。それもやっぱり50歳から60歳からの10年間で次世代を育てようって考えていて。商売も時代が変わるのが早いじゃないですか。だからなるべく早めに交代して、若女将たちに何かあっても、私たちが元気な時に、現場での意見がわかる時に教えてやれる方がいいと思いました。
 うちの若女将は、みんなから早すぎるんじゃないかって言われたんですけど、責任持ったら全然違うんです。動き方も成長も。早くに女将を譲ってよかったと思いました。
 Obama ST. 2030では代表をさせてもらっていますが、こういう風に他県から来た若い人との交流でも、今まで先輩がいらしたから、先代があったから今がある。だから先人にはとにかく感謝しなさいねって、旅館でも会社でも地域でもそれは言うんですよ。今の私はそういう役割じゃないかなって。若い人たちは色々考えをたくさん持ってるでしょう。彼らが困ったときは私たちには彼らにない、人脈がある。でもそれを押し付けるんじゃなくて、一応アドバイスはする。それをするかしないかは、本人たちがどうするかだけど、地域でも母親みたいな感じやね。お母さんってうざいし、やかましいでしょう(笑)

地元の人と移住者とともに。小浜をもっと元気にしていきたい

 小浜は昔からよその人を受け入れるっていうのがあったんですね。観光地というのもありますけど、新しいことを始める時に協力してくれる人が多い。そういう下地を作るのって時間がかかるじゃない。でもそれが幸い小浜にはある。 
 今はたくさんいろんな人が集まる場所になった小浜だからこそ、温泉で健康的になって、若い人たちと話をして少し賢くなって帰る。温泉街って昔は高齢者、という感じだったけど、小浜温泉って言ったらすごく楽しいことがあって、しかも若者が面白いし、私たちと若者とか、地元の人とよその人たちが楽しくやってるよっていうような街にしたいし、私はなると思ってます。
 私の趣味が「小浜を元気にすること」なんです。まちづくりが趣味?って思われるかもしれないけど、仕事も地域のことも楽しくやること。考えるだけでワクワクするようなことを、いろんな人とこれからもしていきたいと思っています。


草野有美子(くさの・ゆみこ) 松浦市出身。1669年創業の老舗旅館「伊勢屋」の大女将。小浜温泉のさまざまな団体を1つにまとめてイベントを成功させたり、移住者と地元の人を広いネットワークでつなげるなど、小浜に欠かせないお母さん的存在。「みんなで集まって楽しいことをするのが好き」と目をキラキラさせて話す大女将の姿に逆に元気をもらえる。趣味は「小浜温泉を元気にすること」

雇われ店長から自分のカラーを出せるように

 19歳の時に小浜の居酒屋に拾われて、その2年後ぐらいに新しいお店をする計画がありまして、それがLION Jでした。カクテルやお酒の利率が良くて、それにお客さんのからのニーズもあって、当時はバー形態の店は小浜では初めてだったんじゃないかと思います。最初は雇われ店長でしたが25歳ぐらいからしっかり独立しました。小浜って観光地じゃないですか。地元の人と観光客が隣り合わせになった時に生まれるやりとりを見ているのがとてつもなくたまらない。すごい面白いんですよ。
 店長としてやっていると自分のカラーが出始めるというか、前に前に出ていきたくなって。街の小さなイベントから2018年には「島原大半島祭」を企画しました。そういうイベントがきっかけで、街の人やいろんな人と接する機会が増えて、きちんと話すというか、それまでは人間関係とかどうでもいい、お店の中でいいと思ってたけど、そんなことじゃない。一言で言うと大人になってきたのか、いろんなバランスや全体的なことを考えるようになりました。今は家族もいて、家族がいると自分の暮らす街のことにつながってくる。これからのことを強く考えるようになりました。

店移転で新たなビジネスチャンスの場を作りたい

 2020年は店をもっと見える場所に、と移転することになりました。夜に観光客が気軽に入れる店作りは自分自身が求めてることでもありましたし、今も変わらずモットーにしていること。移転すればもっと多くの人に店を知ってもらえると思いました。新しい店ではゲストシェフのような、料理人を呼んで、料理を作ってもらい、その料理をお酒を楽しみながら食べてもらうイベントを定期的にしてみたいなと考えています。シェフは有名な料理人だけでなく、漁師さんや農家さん、近所の料理上手な人だったり・・・いろんな業界の人たちが食材や腕を披露するような感じで、新しいビジネスチャンスにつながる場にしたいと思っています。
 例えば、うちも実家が農家で、まだ美味しいのに廃棄される野菜を見て来たこともあって、生産者が作る食材が料理人の手で生まれ変わって、店に来た人たちの反応を間近で見られたら、生産者がただの農家じゃなくなる瞬間に立ち会える気がするんです。きっと誰も悪いことが起こらない。料理人と生産者、生産者と消費者、消費者と料理人の交流が一同にできて、そこから新しいことが始まる。そんなバーがあっても面白いですよね。

地元食材を使ったミクソロジーに挑戦

 あとは自分自身も、地元の野菜などを漬け込んで作るミクソロジーに手を出して研究しています。すでに出しているビーツとみかんのカクテルは大当たりでした。最初のうちは試行錯誤していたんですが、うちの父から「食材を蒸すのがいい」とヒントをもらって、みかんとか蒸し器にかけたんですよ。もっといいのは温泉熱で蒸すのがいいんですけど、パンパンに蒸された状態のものをスライスしてジンなどにつけるんです。そうすると皮の油分や香りがしっかり出て、すごくおいしくなりました。ビーツは地元の農家さんからいただいたもので、富士屋の宮崎君と山東君との井戸端会議でやってみようとなりましたが、処女作にして傑作が誕生しました。みかんはほぼ捨てられてしまうものが使えるのが生産者のためにもいいと思っています。
 カクテルを作るだけに疲れてきたところもあって、この店でしか出せなくて、自分の色を出すなら、と挑戦してみましたが、今ではそのカクテルにどハマリする人もいるくらいです。

勢いのある小浜を店を訪れることで感じてほしい

 若い子たちの最後の受け皿に常になりたいと思ってます。自分たちは20代前半の頃は、こっちに帰ってきても何もないよね、何も楽しくないよねって言う感じでした。だからこそ作りたかった場所だったり、お祭りだったりもするんですけど。移住して来た人たちが、飯がうまいとか、温泉があるとか、自分には当たり前すぎて、その人たちがいいと思うことに、目を向けていないところがあったんです。移住者の皆さんとの交流はいい刺激で、自分が成長させてもらっている感覚はすごくあります。もう一回地元を再発見する機会にもなりました。
 小浜を訪れる若い人たちにも「夜は遊ぶところがないって思ってたけど、小浜いいじゃん、ちょっと舐めてたぜ」みたいな感覚になって欲しい。ちょっとドキドキして帰ってもらいたい。そのくらい今の小浜は可能性を秘めています。なんだかすごいパワーを感じるんです。だから、この店を気軽に地元の人や移住者と交流できる夜の観光案内所的に使ってもらって、そのパワーを感じてもらいたいですし、以前の店と比べると中の様子が外から見えやすくなったので、楽しい雰囲気に引き寄せら


獅子島薫(ししじま・かおる) 雲仙市南串山町出身。「若者の受け皿になりたい」とバーカウンターに立ち始める。豊富な種類のお酒と獅子島さんの聞き上手な性格で、常連も多い。最近では「島原大半島祭」のイベント主催など活躍の幅を広げるほか、異業種交流や新しいビジネスチャンスの場を作りたいと2020年店を移転。地元の食材を使ったミクソロジー・カクテルも研究・提供している。お一人様も大歓迎!

豊田商店から現在のクルスが生まれるまで

 祖父が昭和7年に「豊田商店」として商売を始めたときは、うぐいすや旅館の裏にあったんですが、はじめは、日用品やお土産物、当時は珍しいバナナなどを販売していて、ここで湯せんぺい焼いていました。その後、小麦粉の販売や塩田もしたりして、パンも作っていたそうです。昭和天皇が雲仙に来られた時には、雲仙観光ホテルさんにパンを納めていたんですよ。
 そして現在のクルスが誕生したのが、1964年です。以前は、湯せんぺいを製造していた「小髙屋」さんが、戦後、湯せんぺいをヒントに新しく「クルス煎餅」を作っていましたが、その後、「小髙屋」さんが廃業された時に、「クルス」という名前と画家の鈴木信太郎さんが描かれたポルトガル人とシスターの南蛮絵の原画はうちが買い取らせていただいて。
 現在のクルスは私の父たちが開発に力を入れました。父は全国のお菓子屋さんを見て回ったそうです。和洋折衷、ジャムとかいろんなものをサンドしてみたりそうですが、自分はまだ当時2、3歳で、その時にホワイトチョコレートのお菓子をたくさん食べてたらしくて笑 子供が食べるんだったら、ホワイトチョコレートにということになりました。それに島原は生姜が特産だから、生姜を入れてみたら、美味しくて。クルスは父たちの苦労で出来上がった商品です。

龍馬が愛した珈琲クルスの誕生

 クルスの販売を始めて40年の時にパッケージデザインを一新しました。1種類で40年やっていましたが、デザインを変えて売り上げが上向きましたが、また横ばいの状態になり・・・そんな時にNHKの大河ドラマ「龍馬伝」に地元の出身の福山雅治さんが出演することになって。説明会だけでも行ってみようかと思い、長崎で行われた説明会に参加しました。しかし、会場に入りきれないほど全国から人が集まっていていて、放送される1年間のために商品を作る?って話し合いました。何もしないのも、と開発してみることにしたんです。
 しかし、龍馬が何を食べたか文献がないし、長崎でも活躍はしましたが、滞在期間も短く、ちょこちょこきていたりして、資料が全くない。そんな時にオーケーオフィスコーヒーというところが、龍馬会に入っていて、「龍馬が愛した珈琲」を販売されていたんです。以前から何か作らない?とよく来てくれていて。「海援隊は貿易をしているから多分飲んでるよって」笑 それは当時の焙煎方法で忠実に再現されていてとても苦味のあるだったんですが、それでもとにかく焼いてみようと焼いてみたら、香りがとてもいい商品になりました。
 他県でも結構売れて、美味しいと言ってもらえて、大河ドラマが終わる時にロゴは外さないといけないのですが、別のデザインに変えてもいいから残して欲しいという声が多かったこともあり、今も人気商品になっています。

地元の食材を使った商品開発につぎつぎと挑戦

 その後、販促の担当の方やテレビ局の営業の方が「幸せクルス」というネーミングを考えてくれて、「それもらっていい??」ってコーヒーで忙しかった時に花言葉が「幸福な家庭」だった、県内産のいちごを使って商品を作りました。この商品も大村の工業技術センターに通って、イチゴをどういう風に入れるかを相談したりしました。今では白いクルスとコーヒー、いちごは主力の商品になっています。この3種類は売り場のスペースも広がって、売り上げも上がっていきました。その後は東彼杵のお茶や外海の柑橘・ゆうこうなど地元の食材を使用した商品を生み出しました。パッケージにもすごく時間をかけて、見せ方にもこだわっています。

コラボの話が来た時はまずは挑戦してみよう

 経営を受け継いだ時は、「一点主義で1つ作っていれば、利益は上がるから何もするな」と言われていました。でも時代が変わり、ライバルがさまざまな商品をたくさん出してくる。お土産は空港や駅、高速道路を利用される人が選んでくださる。周りを見渡すとすごい量の種類のお土産があって、競争になる。ありがたいことに商品の開発もパッケージデザインを変えることで販路が拡大するようなお話をいただくこともありました。その一つがセレクトショップのアーバンリサーチでした。白いデザインに一新した一方で、昔のクルスがなくなったのではないかと思った人も多かったこともあり、昔のパッケージを再現した復刻版デザインを作りました。
 今では「TODAY'S SPECIAL」や「AKOMEYA」などでも販売しています。商品コラボの話が来れば、まずは挑戦してみようと思うようになりました。今は新型コロナウイルスの影響で直営店の売り上げも落ちていますが、0ではない。販路の拡大の必要性も感じています。
 小浜は水がいいんですよ。クルスは小浜の水を使用しないと焼けないところがあります。これからも小浜から、全国の皆さんのために、クルスを作り続けていきたいと思っています。


金澤昌江(かなざわ・まさえ) 小浜町出身。パリッとした生地に生姜の効いたホワイトチョコを挟んだ、長崎銘菓「クルス」を製造する小浜食糧の代表。販路を拡大しても、昭和7年に祖父が小浜で始めた会社を同じ地で守り続けている。今では地元の食材を使った商品づくりや大手セレクトショップとのコラボレーションなども手がけ、お菓子を通して小浜の魅力を発信している。
http://www.e-cruz.net/

移住者と出会って「なんでもやっていいんだ」と思った

 生まれも育ちも小浜で、ケーキの修行を諫早、東京、大阪、神戸でして30歳ぐらいの時に小浜に戻ってきました。親父がパンをしていたので、修行から戻った時に、ケーキとパンをやろうかという話になって十数年一緒に店をしました。
 その間、移住者の人たちといろんな出会いがあって。普通だったらケーキ屋なので、ショーケース作って、焼き菓子や生クリームのケーキを作る、定番のケーキ屋さんを独立してやる予定だったんですけど、若い移住者の人たちを見ていたら「なんでもやっていいんだ。ケーキ屋さんがアイス作ってもいいじゃん」と思って、2年ほど前から独立してアイスの店を始めました。ケーキ屋さんってなんでもするんです。アイスはケーキを作る感覚でなんでもできる。自分しかできないアイスを作ることができると思いました。
 最初はお金がなくて、ショーケースも冷蔵庫も買えなくて・・・そしたらデザイナーの古庄くんがポップやロゴを作りますよって。店名もアイスキャンディーもアイスソルベという名前にしたのも、古庄くんや話を聞いて相談にのってくれたみんなの力があってこの店があります。

アイスソルベ1本1本に出会いとストーリーがある

 最初は少なかったんですよ種類が。今は30種類ぐらいに増えました。1個1個増えていくたびにいろいろな出会いがあって。例えば千々石の農産物直売所の「タネト」におろしている農家さん。彼とは「かぼちゃ、どうですかね」って持ってきたものを凍らせて食べたら美味しかったから「これはアイスにいけるわ」という感じで生まれました。「蒼の扉」というアイスは南島原で開かれたイベントに合わせて作って、桃は南島原市深江町の福島農園さんと出会って・・・うちのアイスソルベは1つ1つに出会いと開発のストーリーがあります。
 このアイス、イベント向きで、いろんなイベントで販売させてもらっていました。しかしコロナになって状況が変わって、イベントがなくなって、じゃあどうしようかなって考えてたら、逆に「おろしてもらえませんか」って声が最近増えてきました。今は西海、大村、長崎市2軒、口之津、島原があるのかな。たまに東京とかイベントやる人から連絡をいただいて、こっちに住む人のつながりだったんですけど、東京に送ったりしてます。これからは1県に一店とか、できる範囲でおろしてみようかなって。そんな中でまた新しい出会いとアイスができるかもしれません。

生産者との出会いがきっかけて見えてきたこれから

 今後は梨や桃みたいに、まだ食べられるのに形が悪かったりして廃棄してしまうものをピューレ状にした商品を考えています。野菜版、フルーツ版で島原半島でやってしまえば、多分いいのができるんじゃないかと。いろんな人と出会って、農家さん結構困ってる人多いなとも感じていて。少し安めに仕入れるから、農家さんも助かるし、ピューレをソースに使ったりできるから料理人も助かる。でも今は余裕がないですね。この店夫婦2人でやってるので(笑)
 あとは今、小浜にアールサンクあって長崎ではある程度知ってもらえたので、次はもっと離れた九州、四国とか、その土地でしか作れないものを作ること。どう作るか、フランチャイズみたいにするのか、今悩んでる途中ですが、これも叶えたい目標の1つです。

移住者との交流で考えた小浜の未来

 小浜はもっと人が来るはずなんです。来る街になるんです。ただ、それにはみんなの力がいると思っています。俺がUターンをしてきたころは、どんどん沈む一方でした。まだ移住者もいなくて、小浜の田舎にのまれる一方でした。毎日「ああ面白くねぇ」って。するといつしか、移住者の人が増え始めて、自分より10歳以上歳が違う移住者の人たちが、みんなすごい楽しそうにしたんです。
 移住者の人たちはこの街がいいと思って来てる。いいと思った通りに行動する。しがらみがない。ここ何年かで移住者の人が増えて、ガラッと街の様子が変わりました。俺も最初、古庄くんとか山東くんが来たときは、「なんかよそもん来たわ」ってそんな感じでした。しかし、彼らといろいろ話をして気づいたんです。「あ、この子たちにはかなわんわ」って。逆に教えてもらおうって。そういう頭になりました。
 最初は自分を変えることは難しかったです。古庄くんたちがうらやましすぎて。「なんで自分できないの?あんだけ修行したのにって」けど違うんです。頭を固くさせていた自分が悪いんです。Iターンの人とずっとここにいる人、さらにUターンで帰ってきた人たちが噛み合って初めて成り立つ。小浜も島原半島でもそうですけど、Iターンできた人を大事に、Uターンで帰ってきた人も大事に、みんなが仲良くできれば、多分いろいろ回っていくと思うんですよね。


松尾利博(まつお・としひろ) 小浜町出身。諫早、東京、大阪、神戸でパティシエ修行後、小浜に戻る。若き移住者に刺激を受け、アイスソルベ専門店として再出発。店で出される約30種類のカラフルなアイスには1品1品に生産者との出会いや製作時のエピソードが詰まっている。飾らない人柄と熱い想いに、松尾さんのファンも多い。

大学時代に城谷耕生さんに出会い、「もう少しおしゃべりしたい」から移住へ

 元々小浜は縁もゆかりもなかったんですけど、大学時代にデザインを学んでいて、ゼミの先生が小浜に行くきっかけになる城谷耕生さんを大学に連れてきてくださって、デザインの講評会のゲストできてもらいました。
 はじめは城谷さんの事務所で働きたいというより、「もう少しおしゃべりしたいな」ぐらいの感じで、講評会で知り合ってから2週間後にバスを乗り継いで小浜に来てから小浜通いが始まりました。
 それから、城谷さんのところで働かせて欲しいってお伝えして、ちょうどその時、「刈水庵」という城谷さんが運営している店をオープンする時期で、オープニングスタッフで僕が入らせてもらうことになり、新卒で2013年に小浜に越してきました。

小浜に住み始めて刺激的なこと、楽しいことの毎日

 最初は刈水庵のちょっと下の家に住んでいて、「城谷さんのところで働いている子」という感じだったので、みんなにも可愛がってもらって。大変なことは全然記憶になく、刺激的なこと、楽しいこと、驚きとかそういう毎日でした。
 毎日歩いて「浜の湯」という銭湯に通ったりしたので、「城谷さんのところの新しい子やろ?」みたいな感じで話してくださって、皆さん面倒見がいい方ばかりで、世話好きっていうか、そういう方に恵まれて、よくしてもらいましたね。隣の方にもジャガイモとか玉ねぎとかいっぱいもらったり、「刈水庵」の柿の木が伸びすぎてるって剪定の仕方を教えてもらったり。いい意味で関わってくれる人が多くて助かりました。

独立。地域の人たちの協力で喫茶を備えた事務所を設立

 3年半「刈水庵」で働き、小浜に住んで、小浜自体の街が少しずつ好きになって、毎日関わってくれる方とか、温泉とかいろんな要素があるんですけど、その中で仕事のつながりが増えていきました。それがきっかけで小浜で独立したら面白そうだなという気持ちになりました。
 独立をしてはじめは自宅で仕事していましたが、同時に空きテナントを探していて、そんな時に「レストランニュー小浜」の方から商店街組合の事務所だった2階建の建物が取り壊される話を聞きました。「僕が使っていいですか?」と言ったら、解体費も高いので使ってもらおうという話になったそうです。僕に貸すためにこの建物の持ち主になってくれる人もいて、仕事の拠点を作る機会を地元の人にいただきました。
 事務所ではグラフィクデザインだけで、1階で喫茶をやろうとは全く発想になかったんですよ。テーブルや椅子を置いてとか考えてたら、2階だけで結構足りちゃったなと思って。順番的にはまず、事務所を作ろう、1階余ったな、せっかくこの場所にあるのに打ち合わせに来る人しかここの扉を開けないのはもったいないなと思って、土日だけオープンする喫茶室を作りました。結果的に1階で喫茶を始めてから、喫茶のお客さんがクライアントになったというのが何回かあったんですよ。

グラフィックデザインで街の景色を少しずつ作っていきたい

 建築とかってすごく力があるじゃないですか。ボリュームとか街のランドマークになるし、強いし、大きく見える。何千万、何億とかお金もかかる。僕の仕事は名刺1枚、看板1個とかのデザインの仕事なんですよ。知らない街を歩いて、その店の看板とかその店に貼られているチラシ1枚とか、それがかわいい、雰囲気いいなとか、そういう小さなものの集まりが、その街の景色を作ってるんじゃないかなと、そうだとすれば素敵だなと思って。「景色デザイン室」の名前も景色を作ることからきています。
 今は一個一個、目の前の仕事をよくしていけば、結局未来につながっていく。いい仕事をしていれば、そのクライアントがしっかりお店を守ってくれて、結果的に小浜の街を作っていくことに自分も関わると思っています。
 今では、Iターン、Uターンの人も元々住んでいる地元の人とも、つながりができて、「小浜の人たちと一緒にやっていくんだな」という気持ちがあります。それぞれみんな仕事をしているし、ちゃんと自立して、誰かに依存することなく、しっかり自分の生業を立てていて、何かやろうってなったら、すぐに集まれる人がいるっていうのは僕にとって嬉しい、ありがたいことです。小浜が好きなので小浜でこれからも仕事をして暮らしていければなと思っています。


古庄悠泰(ふるしょう・ゆうだい) 福岡県糸島市出身。大学時代に城谷耕生さんに出会い、小浜に移住。刈水庵のスタッフを経て、独立。小浜町のほぼ中心にある喫茶を備えた事務所「景色デザイン室」でグラフィックデザイナーとして活躍中。
https://keshikidesign.com/

噴火災害やバブル崩壊で活気が失われる街を何とかしたい

 1991年に旧小浜町の町役場に入ったんですけど、まだその時はバブルの残り香がある時で、まだ景気がいい時期でした。しかし、その後雲仙・普賢岳の噴火がひどくなり、温泉街が風評被害で大変な時期に入ります。その前の年までは、雲仙や小浜は九州の観光では最強と言ってもいいぐらいすごくお客さんが来ていた時期でしたが、噴火災害がやバブルがはじけて、団体旅行から個人の旅行に変わっていったように思います。お客さんの思考が変わったんでしょうね。当時の温泉街は時代についていけないところがありました。生活するので精一杯で。
 私はその頃、福祉や税務課とか、地域おこしとは関係ない部署を回っていたんですね。活気が失われていく温泉街の様子を見ていて、地元のために何かしたいとアピールはしていました。

「市民と楽しみながら生きていく」ちゃんぽん番長の誕生

 転機になったのは、2005年に7町が合併して「雲仙市」になった時です。「いよいよ私の力を発揮する時だ、観光課に行かせてくれ」と雲仙市の初代市長に相談しましたら、「それならやってみろ」と合併後最初の異動で観光課に配属されました。しかし、最初の半年は結構事務仕事に追われて、思っていることと違うなという風に思いました。それから、観光行政と違うところで、地域おこし、街づくりをしたいというところに考えが変わってきます。「市民の皆さんと楽しみながらその一員として生きていくこと」が自分のやりたいことだと思うようになりました。
 観光課に異動になって半年後、食で何かできるんじゃないかなと思って、好きなちゃんぽんをPRしてはどうかと思い、作ったのが「小浜ちゃんぽんマップ」です。これがきっかけで、「ちゃんぽん番長」と呼ばれるようになりました。最初は自分もどんな愛称にしようか手帳に書いていたんですけど、「ちゃんぽん普及員」とかですね(笑)「ちゃんぽん番長」の名付け親は当時の長崎新聞の雲仙市担当の記者さん。彼の記事をきっかけにいろんな人が取材に来てくれました。

スイーツ、蒲鉾、コロッケ・・・そしてドラマのモデルに

 1つやると自信がついたのか、小浜ちゃんぽん以外にも雲仙スイーツを発掘したり、コロッケもしましたね。日本一長い焼きちくわ対決で北海道の網走市と戦ったり。蒲鉾の業者さんたちはこの時にとても団結して、網走市とは今も交流が続いています。あとはエイプリルフールの4月1日に雲仙仁田峠で大声でウソを叫ぶ「大ホラ吹き」とか変なイベントもしましたね(笑)
 そのあと島原半島観光連盟、ジオパーク協議会に6年ほど行っていて、観光課の貯金で食べてるとか勝手にしぼんでいってると思っていた時期もありましたが、その場所その場所でいろんな出会いがあって、栄養補給してる部分があって。ずっとメディアの人とも仲良くできているところがよかったのか、2013年にはNHKのドラマにも取り上げてもらいました。
 ただ、結果何もできていないんじゃないかと思うところもあります。やっぱり少子高齢化とか社会的変化には何も対応できていない。こうやって移住してきた人たちから取材してもらえることは、すごく嬉しくて、自分も少しは地元に貢献したところがあるんじゃないかって思えます(笑)

次なる仕掛けは「マイクログルメツーリズム」

 今は入庁当時の職場である小浜総合支所に戻り、市民のサービスに直結する仕事をしています。これからは、マイクロツーリズムではないですけど、マイクログルメツーリズムのような、地元に根ざした活動っていうのも必要なのかなって思っています。新型コロナウイルスのリスクで、大きなイベントがちょっと廃れてくる。
 実際にコロナの影響下で地元の特産品を集めた詰め合わせ箱を作ってPRしたら、とても反響が大きかったので、そのメンバーの方と「島原半島ちょい旅」を進めています。島原半島に近場の人を呼び込む、または島原半島の人が半島を楽しめるようなものをやりましょうと。協力業者さんたちがとても仕事が早い。私が行政に関わって、普賢岳の災害、バブル崩壊、インバウンド、そしてコロナといろいろありました。元気な業者さんが雲仙市だけでなく島原半島は多いから、まだまだ私も頑張らないと。
 あとは最近は筋肉おこしにも力を入れていて、体をすごく鍛えてますね。精神年齢が低いのか、筋トレ動画を見ているときは自分は20代ぐらいの気持ちですし。そんな精神年齢で自分よりも年下の人ともっと仲良くして、刺激をもらいながら、地域の未来を一緒に描いていけたらと思います。


林田真明(はやしだ・まさあき) 小浜町出身。「ちゃんぽん番長」の異名をもつ、市の職員。小浜のソウルフード「小浜ちゃんぽん」を全国に広め、スイーツ、蒲鉾など地元のさまざまな特産品や名物を次々と発信。その活躍はNHKのドラマのモデルにもなった。次なる野望はマイクログルメツーリズム。地元を再発見できる「ちょい旅」を島原半島の人たちと企画する街おこしのキーパーソン。

青春の汗と涙を応援します!子供から大人までスポーツをする人のケアを

 開業したのは1991年で整骨院の先生はその3年前からやっているのから、もう30年あまりになりますね。今は整骨院とスポーツトレーナーとして活動しています。自分はかつて柔道をしていましたが、小浜に帰ってきた時、地元に柔道部がなくて。街をスポーツで活性化させるために、最初にしたことがウエイトトレーニングでした。当時は筋力を上げることによってより運動能力を上げるという概念がなくて、運動のベースアップを小浜でとジムをやり始めました。整骨院もしているから、トレーニングと同時に体のケアもしました。
 それにテクニックを教える人が必要だと小浜高校に柔道の監督を誘致したんです。誘致のために柔道部の寮を作って、監督と二人三脚で育てたのが元佐田の富士(山科親方)。そしてBリーグ・アルバルク東京の田中大貴選手も小さいころから見ていましたし、陸上短距離の宮崎久選手も有名な選手になりました。スポーツする選手をサポートして結果としてスポーツでご飯が食べられる道標を作ることができたのは目標が1つ叶ったことです。
 うちのキャッチコピーは「青春の汗と涙を応援します」。青春は子供たちだけじゃない。スポーツを頑張っている大人にも体のケアという部分で応援していきたいと思っています。青春=楽しむこと=街づくりになる、それが私の仕事。うちは予約の取れない整骨院です(笑)

とにかく自分が楽しむこと。それが街づくりに繋がる

 実は20年ほど前に手作りの観光マップを作ったことがありました。何か地域に還元できないかと思って「人を楽しませる」ということを考えた時に、観光協会や町が作ったマップとは違うものを作ろうと思ったんです。いろんな観光パンフレットやマップがあったんですが、どれも高額な予算をかけている割に、皆さんのニーズに答えていないように思えて。
 当時の私のわがままで、整骨院にいらっしゃる患者さんに「小浜で一番食べて美味しかった店はどこ?」って100人にアンケートを取りました。その結果をもとに10軒ほど絞って、店のマップを手書きで描いて、それをコピーして、ガソリンスタンドやスーパーに置かせてもらいました。そしたら結構手にとってもらって、私が作ったマップを持って訪れた人たちが小浜の街を散策してくださったりしてましたね。
 今もSNSで食レポを動画で配信したりしていますが、「とにかく自分が楽しむ」ことを考えてやっています。スポーツ選手を生み出すこともですが、なんでも楽しむことが街づくりに繋がると信じています。

自然の中で遊ぶことをもっと追求して体験させたい

 「今の子供たちは自然とふれあっていないから弱いよね」と言い方する人がいますよね。じゃあ自然とふれあうってどういうことか、自然の中で体が元気な、健全な子供たちを育てるためにどうするのかを徹底的に考えました。なぜかというと私たち自身が自然とふれあっていないゲーム世代だということに気づいたんです。これから自分たちみたいな世代が増えるという実感もありました。ゼロから農業をしようと、後輩の使っていない畑を借りて、鍬で開墾して、無農薬野菜を作ったり、先輩たちに自然の中でどんな遊びをしたのかやコマ回しや磯遊びみたいな昔の遊びを自分も学びながら、子供たちにその体験してもらいたいと思っています。こういう体験で子供たちを通して、自分たち親世代の人にも自然を楽しむ経験をしてもらって、一緒に思い出を作ってもらいたいですね。小浜は後ろは山、前が海。そういう自然体験がたくさんできる街でもあります。

美味しいものや音楽を地域発信で伝えることにも挑戦

 今と昔で違うことは今は動画の配信ができますよね。SNSで小浜の美味しいものを動画で発信をしてますが、自然体験の方も、みんなで一緒に共同体験しながら動画配信していきたいと思っています。小浜で遊ぶ体験や面白さを画面を通じて共有できたら、小浜でできることの多さに気づくことができるんじゃないかなと。観光だけでない楽しみ方を求めて今までとは違う客層の人が小浜を訪れるかもしれないと思っています。動画に関してはまだまだ勉強中ですが、動画配信以外にも地域の情報や心と体のケアについてもサイトで楽しく、わかりやすく発信していきたいなとも考えています。
 それから私は音楽もしていて「小浜ちゃんぽんず」というアマチュアバンドで活動したり、ソロでギターを弾いたり・・・。あとは喋るのが得意なので、小浜のイベントのMCもしてます。
 得意なことが結構あるので、今後も続けながら、自分なりの街づくりをしていきたいと思います。


竹馬猛(ちくば・たけし) 小浜町出身。健康面で街の人たちをサポートする傍ら、「プロのスポーツ選手を地元から出したい」とプロの力士やバスケットボール選手を輩出する夢を実現。20年ほど前には整骨院の患者100人にアンケートをとって手作りの観光マップを作ったほか、現在もSNSで小浜のおいしいものを動画で発信するなど、「まず自分が楽しむこと」をモットーに街づくりを実践している。

観光バスガイドから結婚式などの司会業へ

 今の南島原市西有家町で幼少時代を過ごしました。あのみそ五郎の。高校を出てからははじめは保育園の先生になりたかったんですけど、自分の目指すところに入れなくて、本社が熊本の九州国際観光バスというのがございまして、九州を横断するバスなんですけど、そのバスの営業所が雲仙にありましたので、バスガイドとして雲仙の魅力をお客様にご案内をしていました。結婚して小浜に越してきてからもしばらくは仕事を続けていましたが、24歳の時にバスを降りました。 
 その後は、小浜温泉の各旅館で結婚式がそのころはありましたので、結婚式の司会もしていましたよ。ドライアイスをたいて「新郎新婦のご入場でございます。皆様方温かい拍手でお迎えくださいませ」とそんなことを言っていました(笑)それはいつぐらいまでかな。30代半ばごろまでだったと思います。それからは、研修センターの司会とか、南串山町の方に姉の運送会社の事務所があったので、お手伝いをさせてもらいました。いろいろしてるでしょう??

実は人前で話をするのが苦手でした(笑)

 実は人前でお話しするのが苦手だったんですよ。全然想像つかないでしょう?(笑)国語の時間にみんなの前で本を読むのが、息切れするくらい緊張してしまって、自分は人前で話すのが苦手だと思っていました。友達同士とかの世間話やミーティングとかでは意見はじゃんじゃん出していたんですけど、大きな会場とか大勢の人の前だと全然だめで。雲仙でガイドの仕事があるらしいって家族から言われて、バスガイドになった時は、苦手なことを克服する時かな、自分を変える時かなって思ったのが始まり。自分でも克服したいという気持ちは強くありました。それがたまたまガイドという道が目の前にあって。実はそんなきっかけがあったんです。

お客様との対話のキャッチボールがガイドの魅力

 観光ガイドになったのは、長崎のさるく博が以前あった時に「小浜のさるくを立ち上げませんか?」という話が持ち上がって、ガイドをしたい人を小浜で募ったんですよ。こういうのがあるんだったら私もお手伝いしたいと何人かが集まって、小浜ガイドっていうのを発足させました。その後、島原の方でジオパークを立ち上げたいと、ジオパークの勉強をしませんかという話になって、小浜のさるくガイドはジオパークの勉強もしましょうと講習を受けるようになりました。
 小浜の観光ガイドは各旅館や観光協会から依頼があったりすると、誰が空いてるかでオーダーが来て、ジオパークは島原半島観光連盟から依頼が来るような感じです。
 ガイドも司会も人前で話す、すぐ近くに人がいる前でお話しするということはすぐに反応が返ってくる。反応が嬉しいしそれが魅力。お話を投げかけると質問が来たり、お客様とのキャッチボールが楽しくて、自分としてはガイドは満足できる仕事かなと思います。

小浜を知り尽くした名物おばさんになりたい

 小浜は温泉が豊富であること、せっかくの温泉が3割しか使ってないのにあとの7割はどうするの?っていう今から発展途上国のようなところもあるし、もっとお湯で遊べるのにっていうのがものすごくあって。お見えになった人に何か楽しんでいただきたいという気持ちがいっぱいの場所です。
 私たちの世代は、人からパンフレットをいただいて、綺麗なところだな、行ってみようか、団体旅行あるいはツアーで行こうかっていうのが旅行のやり方だったんですけど、今からは違うと思うんですよね。若者たちの旅行はちゃんと事前にしっかり調べて、インスタ映えじゃないけど、そそられるような雰囲気の場所を目指す。そんな場所を作っていけば、若い人たちって来るんじゃないかと思います。
 私は地元のちゃんぽんのお店とか各旅館もお客様の好みに合わせておすすめをお伝えできるくらい網羅していると思います(笑)1軒1軒訪れてその店の特徴や味、それに旅館の階層によって見える景色の違いとか、泉質の微妙な違いとかアドバイスできます。拙い知識かもしれませんが、これまで学んだ島原半島や小浜の情報だけでなく、パンフレットに載らない情報もたくさんの人に伝えたい。おばあちゃんになるまで、生涯現役でガイドをして、お客様との触れ合いを続けたいです。もう60も半ばだから、はちゃめちゃできないけど(笑)でも、名物おばさんガイドがいるよっていう風になれたらいいなと思っています。


中村和美(なかむら・かずみ) 南島原市西有家町出身。小浜や島原半島の歴史を語らせたら右に出る人はいないほど、地元を知り尽くした観光ガイド。バスガイドや結婚式の司会などで人と対話のキャッチボールに魅力を覚え、言葉を使った仕事を続けている。小浜温泉の各旅館や飲食店についても実際に訪れて、細かい部分まで網羅。

測量・不動産の仕事からデザイナーの道へ

 高校まで熊本で、それから6年間は測量や不動産の仕事をしました。もう少し、モノに関わりたいという思いから、その後福岡のデザインの専門学校に行きました。測量みたいに自然ぽい、人にいいことをやってお金をもらえたら幸せだなと思った時に、理にかなった仕事に付きたいと、大工さんとか農業もそんなイメージだったんですけど、僕が20代前半の時によく、「一次産業や伝統工芸が自分たちの力で生きていけない」て言われている時があって、生きていけないのは困るな、業界的にはっきり言われているのは困るなって。どうしようかなと悩んだ時に、それに手を差し伸べてる職業がある、それがデザインでした。

城谷耕生さんとの衝撃的な出会いを経て、小浜へ

 専門学校自体は新しいものを作りなさいとか、あまり社会とか自然と関わりがなく、売れるものを作るみたいな授業でした。それもなんか違うなと思って。入学はしたんですけど、最初の3ヶ月でやめようかなって思った時に、先生が外部のデザイナーを呼んで特別なトークイベントやるから「そのイベントで話を聞いてみてもいいんじゃないか」って言ってくれて、その時来たのがまさかの城谷耕生さんでした。
 城谷さんはそこでデザイナーとして何を作ってるかプレゼンはされなくて、僕がその時に覚えているのは、「イタリア人は必要がなければ稼がないし、働かない。必要な分だけ経済回して、あとは読書したり、音楽聴いたり、家族とご飯食べたり」って、僕が6年間勤めてた仕事って、年度末って休みがないし、家族ほっぽり出してとりあえず完成させるのに終始するみたいな、そういう職業だったので、「すごい、そんな人もいるんだ」と思って。もっと話を聞いたら、実家が小浜で、小浜で仕事をしてるって言うので、東京でもなく小浜って、僕の家から船で行けるので、それは行きたいと思って、すぐにインターンを申し込みました。それから小浜に住み始めてもう10年くらいになります。

自分が好きな暮らしをそのまま仕事に

 小浜に来てデザイナーの古庄くんや研究者の山東くんと出会い、刈水庵に関わる若者と刈水地区で家を借りて住みました。家賃も安くしてくださって、地域の人たちも本当によくしてくれました。今も、庭のあるこの刈水の家で、庭で朝ごはん食べたり、心地いい暮らしができていると思います。
 「自分が好きな暮らしがそのまま仕事になれば」と今はメインで店舗のデザインをしていますが、ローケーション探しから始まって、土地があって建てるものがあって、準備するものをお客様と一緒に考える。何の本を読むか、から始まって、それを業者に頼むか、僕が見つけて買ってくるか、僕が作るかとか、あと誰かに頼んで作ってもらうなど、話し合いから作業工程まで、いろんなつながりがあって、すごく楽しい。デザイン以外に地域の草刈りなどの仕事もしていますが、最初はボランティアだったのが、小浜は商売をやっている人が多いから1円のありがたみをご存知で、支払いをしてくださったり、野菜を対価でいただいたり。お金の授受だけで簡単に成立する社会は便利ではあるんですけど、縁側はなくなり、塀も高くなり、私の家は私、あとは知らないというような隔たりがあるような生活が主流になりつつある今だからこそ、地域の人たちとの隔たりをどんどん取り外していきたいし、デザインも小浜でのいろんな人と関わりがある、今の自分の好きな暮らしを見て、いいなと思ってくれた方と一緒にやっていけたらと思っています。

地域のおばあちゃんの知恵を後世に伝える伝承者に

 今の生活は仲間も増えて楽しいし、安心して暮らせていますね。これからは、まだ小浜を知らない人たち、こういう地方は生きにくいと思ってる人たちに対して、別にそんなことないよって。1人でも多くの小浜を知らない人を連れて来て、楽しんでもらって、帰る頃には小浜って意外にいいねとか言ってもらえるようにしたいですね。
 僕がこうやって生活してるのってまだマイノリティで、「それは好きだからやれるんだよ」とか、そういうイメージを持っている人も多い。社会を作るのって東京で決まるわけではないじゃないですか。それを払拭していきたいですよね。
 それに地元のおばあちゃんとかいろんな知恵を教えてくれるんです。雨が降った時や何かあったときはあそこに逃げなさいとか、昔あの場所は崩れたとか・・・刈水地区の一番上で暮らしているおばあちゃんが90代で、あんなおばあちゃんがいるのに生きていけませんって帰るのは正直恥ずかしい。負けてられないって気持ちもありつつ、そういうおばあちゃんたちの知恵を受け継ぎながら、自分たちの好きな暮らしをやって、後々の人には、ここでは気持ちのいい暮らしができるっていう答えが1個用意ができれば、僕がここで生活している意味があるのかなと思っています。定住者となって繋がれてきた歴史や知恵をバトンタッチできるようにしていきたいですね。


山崎超崇(やまさき・きしゅう) 熊本県荒尾市出身。一次産業や伝統産業を守りたいとデザインを学んでいる時に城谷耕生さんと出会い、小浜町に移住。天気がいい日は庭で朝ご飯を食べたり、近所のおばあちゃんに知恵をもらいながら、ライフスタイルそのものを店舗や空間デザインの仕事に生かすほか、小浜の伝統産業「製塩」にも携わる。地元の人以上に小浜の街の魅力を理解し、楽しんでいる。

イタリアで学んだ「歴史とつながりながら社会を良くする」考え方

 中学までを小浜町で過ごし、高校は長崎工業高校に進学して家具の図面を書いたり、実際に作ったりしていました。その後東京のデザインの専門学校に行った時に、取り組む課題が面白くて、例えばピンクフロイドの音楽を大音量で掛けられて、その音楽をイメージしながら、目の前にある音楽雑誌を切り抜いて音楽ジャケットを作るとか、空気のイメージで鉛筆でデッサンを書くとか、考えることが楽しくなりました。デザインにより興味を持つようになったのはこの時でした。
 それからもっといろいろなものを見てみたい、いろいろな国に行ってみたいと思うようになり、イタリアに行きました。僕たちが習った基本的なデザインはヨーロッパ発祥のものだったので。ヨーロッパは日本やアメリカなどと違って、経済中心に社会が動いていません。自分は社会の小さな一員で、自分の力をみんなと結集して、歴史とつながりながら社会を良くする。自分が何かを生み出すんじゃなくて、継承して未来にバトンタッチする。イタリアのデザイナーの人たちにはそんな考え方が強かったように思います。

小浜を拠点に仕事をすることとスターシステムへの疑問

 イタリアで10年ほど過ごし、2002年に小浜に戻りました。小浜に戻ったのは一番安くすむかなって。生活費が安く済むのが一番。今も何社か、手でモノを作る人たちの会社と仕事をしていますが、手仕事だったら工房が北海道から沖縄までいろいろあって、東京ではなくてもどこにいても、自分の仕事はできるだろうなと思っていたので、快適に暮らせる小浜で仕事をしようと思いました。
  売れっ子のスターデザイナーになって、大企業の仕事をして名前が売れてお金持ちになろうとするのを、建築とかデザインの世界では、「スターシステム」といいますが、人やメディアやお金持ちがたくさんいる都会にいて、ビッグビジネスをしてやろうという気持ちはあまりなかったですね。 
 仕事は仕事だけど、生活も自分にとってはすごく大事だと思っていたからで、イタリアの有名なデザイナーの人たちの生活は、好きだからデザインはしてるけど、むしろ人生を楽しんでいる感じ。盲目的に朝から晩までデザインのことは考えてるって感じではありませんでした。残業はしないし、昼も美味しいものをゆっくり食べるとか、そういう生活をしていました。日本ではこの職業は続けられない人が大半。ほとんどが職業替えをしています。今はやりとりがFAXからメールになって、電話代も安くなって、仕事も楽になってきましたよね。今まで続けてこられたのは小浜にいたことはとても大きかったと思います。

小浜は田舎ではない。温泉地の可能性にもっと気づくべき

 私は小浜を田舎だと感じたことはありません。中学校の頃は、映画館もゲームセンターも何軒もあって、僕たちもよくゲームセンターに通ったりしていました。なんでも身近にありましたし、旅館やホテルなど大きな建物もありました。車がなくても生活ができる田舎っていうのが僕は温泉地じゃないかなと思っています。今からは温泉地に移住するっていう選択肢がかなり増えてもいいんじゃないかなって。温泉地は意外とインフラが整っていて、密集している。歩いて全部買い物に行けて、毎日温泉に入ることができる。それに美味しいものあるじゃないですか。小浜も美味しい海の幸があって、温泉に入れて、風光明媚なところが多い。もっと温泉地の再利用というか、再認識というか、温泉地みたいなところだったら、都会の人も移住しやすいんじゃないかなと思うんですよね。

若い人たちには思いきって自由に、小浜で楽しく暮らして欲しい

 最近は小浜にもたくさんの若者が移住したり、都会や県外から帰ってきたりしていますが、思いきって自由にやって欲しいなと思っています。そして小浜で楽しく暮らして欲しい。いろんな仕事を発展させてやっていくために、何か意見をいうことが必要な時や困ったことがあったら、一番年上の僕が、彼らのサポートもできると思っています。  でも正直、やっと仕事に集中できるかなていう気持ちもあるんですよ。今はいろんなことを彼らにバトンタッチして、サポートに回り、もっと自分のデザインの仕事に集中する。私たちは50歳ぐらいからが一番仕事ができるんだろうなと。自分の仕事をもっと充実させることももちろん、デザインを通して小浜の景観を豊かに、美しくして、整備していくことにも彼らと一緒に関わっていけらたらいいなと思います。それがゆくゆくは自分が住みやすい街になっていくことにつながると思っています。


城谷耕生(しろたに・こうせい) 小浜町出身。高校卒業後、東京のデザインの専門学校に進学し、その後イタリアを拠点にヨーロッパでプロダクト・インテリアデザインを学ぶ。現在はヨーロッパで影響を受けた「古いものを大切にし、未来に継承していく」創作活動を小浜を拠点に国内外で実践。刈水地区の活性化プロジェクトでは、空き家の多かった地域を作家やデザイナーの集まる地域へ変貌させた。
http://www.koseishirotani.com/

18歳の時の感動を約30年抱き続けて

 今は草木染め作家を生業としていますが、もともとは18歳のころ、五島の養蚕をされている方が、出荷ができないくずまゆを自分で糸にし、庭にあった桜でそれを染めて、娘さんの成人式のために着物を織る、ということがテレビ番組で紹介されていて。それを見てとても感動したんです。すぐにテレビ局に電話をして、その方のところを訪れました。「緑の葉っぱからこんな美しい色が出るのかと感動して、職人の世界に入りたい、弟子にして欲しい」みたいな感じで。18歳って人生の選択を迫られる時期ですよね。その方は「それで食べていくことはとても大変なので、きちんと仕事を持って趣味でした方がいい」と言われました。家族からもそう言われて、看護師の道へ進みました。
 看護師も専門職だから中途半端にはできないし、難しい仕事。最初のころはお金のために働こうみたいな感じだったんですけど、看護師としての仕事の醍醐味がわからないままなのもやっぱりいけないし、きちんと向き合おうと思って、30年ほど続けた時に、自分の中で看護師として満足できるものが少しずつ見えて来て、そのころはもう教えるという立場ではあったんだけど、こういうことだよなって言えるものもできたかなって。
 草木染めは作業にたくさんの工程と時間がかかるから、仕事をしていると集中してできないんですよね。看護師をしているときは夜勤があって休みが3日とか取れたので、その休みを利用して、職人を訪ねたり、図書館に行って勉強したりしていました。本当に18歳の頃のやりたいという感動が強かったんです。

好きな色である「アイ」色と「アカネ」色が見える小浜へ

 40代後半になった頃に定年になってから始めるより、作業量も多いからある程度元気なうちに看護師を辞めて、草木染めを始めたいと、あちこち田舎に行っては、藍や綿が栽培できる場所を探していたんです。だけど、自分の中でピンとくるところがありませんでした。そしたらたまたま見ていたテレビで、刈水庵や当時働いていたデザイナーの古庄くんが紹介されていて。またテレビです(笑)小浜は長崎市から近いし、いいかもって。その足で来たんです。
 刈水地区は水もあるし、今のアイアカネ商店を開いているこの場所は、染織りにはいいよねということだったんですけど、最初はうまくいかなくて、一度話をストップしたんです。それから2カ月ほど経ったころに「刈水でやっぱりどこかないですか?」と城谷耕生さんに相談しました。そしたら、刈水庵の上にある今の工房の場所を紹介され、それから1年かけて工房を整理して準備を進め、2013年に工房をオープンしました。
 「アイアカネ」という屋号は準備期間に、夕方になると今は工房のデッキになってるところで、夕日が落ちていくのを眺めていたんです。あの場所からは、私が好きな海の藍色と夕日の茜色が1日の中に必ず出てくる。それで夕日の茜色を見ながら1日今日も頑張ったねって癒していました。
小浜への想いを名前に込めています。

全国に広がったオーガニックコットンプロジェクト

 始めた頃は、誰かに教わったわけでもなかったので、ほぼ我流で。全く自信がなくて何をしていいかわからなかったんです。でも私が習いたくてもできなかった草木染めや糸紡ぎ、機織りをしたいと思ってる人もいるかもしれないと、ワークショップという形を始めました。
 それから小浜の旅館にハンカチやタオルを染めた商品を置かせてもらえるよう訪ねて回りました。城谷さんたちも刈水庵に来られたお客様を工房まで誘導してくれて、少しずつメディアでも紹介していただいたことで、お客様が来てくれるようになりました。
 今年は5月にアイアカネオーガニックコットンプロジェクトを始めました。これは綿を種から育ててくれる人の協力を得て、栽培する取り組みなんです。
 最初はオーガニックを意識している店に種を置かせてもらったんですが、新聞で紹介してもらってから、全国から問い合わせがたくさんありました。目標は綿の繊維だけで200キロ。皆さんが栽培してくれた綿は業者にお願いして糸や布にしてもらおうと思っています。どういう布にするのかまだ検討中なんですが、皆さん無償で協力してくださって綿を育てているので、何かお返ししたいと思っています。

衣服の地産地消もできることを伝えていきたい

 オーガニックコットンプロジェクトでは伝えたいことがあって・・・今はほぼ100%みんなが来ている服が輸入に頼っているじゃないですか。日本は昔から麻や綿を育てて、糸にして、それを染め屋に頼んで色をつけて布にしていました。だから昔の人は大事に大事に来たものを雑巾にして擦り切れるまで使って、使い切ったら土に返してってサイクルがあった。自然がまだ残ってるんだからそれができないわけじゃない。
 「衣食住」で、衣服がなぜ最初にくるのかなって考えてて、看護師をしていたっていうのもあるんですけど、裸では、日本では温度管理、体温の維持ができないんですよね。体温の維持がなかったら、食べるより前に命を落とすからかなと思って。単純に呼びやすいからそうなってるのかもしれないけど、衣服を着るってとても大切なことだと思います。
 このプロジェクトは素材を作って、紡いで、染めて、織る、昔の人がしていたことを再現する取り組みです。食べ物の地産地消と同じように、布に関しても輸入に頼らず、地産地消ができることを伝えていければと思っています。この取り組みはこれからもずっと続けていきたいですね。


鈴木てるみ(すずき・てるみ) 長崎市出身。看護師や看護学校の先生として働いた後、18歳の時からの草木染め作家の夢を小浜町刈水地区で叶える。自然と人の関わりや手仕事の良さを創作活動で体現。古民家を改装したショップには鈴木さんが染め、紡いだ「衣」の商品が並び、手に取ってみると、人柄を表したような温かさを感じる。話してみると親しみやすさを感じるのも鈴木さんの魅力。
http://aiakane.com/

政府の要人のお腹を満たしていた修行時代

 福岡の専門学校時代にNHKの「おいしい闘技場」という番組に3人グループで参加して優勝したんですよ。福岡の歴史などをテーマにして、筑前煮を進化させたものや梅ヶ枝餅をあまおうでアレンジしたデザートを作ったりして。もともとこの旅館を継ぐ予定で、和食を専門に学んだんですが、練習では失敗ばかりで、本番しか成功しませんでした。本番に強いのかもしれません(笑)
 専門学校を卒業後は、東京のホテルニューオータニの庭園の中にある日本料理の店やキャピタルホテル東急の中の和食の店で修行をしました。国会議事堂が近いこともあり、政府の要人の方もよく食べにいらしていました。自分はその天ぷら担当で。車海老とホタテ、その時の旬の野菜のかき揚げなど、その時は食べられるものが決まってらっしゃいました。
 そして、2017年に帰ってきました。それまでは小さい店でも調理場は僕以外にも4人ぐらいいて、多いところは10数人いるお店の中の1人として働いていたんですけど、帰ってきたら料理人が僕しかいない。今は1人でできる範囲でメニュー構成を考えないといけないのが大変です。

コロナ禍で生まれた鮮やかな「散らさ寿司」

 コロナが蔓延し始めて、妻と話をしていて生まれたのが「散らさ寿司」です。ゴールデンウィークに、田中鮮魚という魚屋さんに行ったんですよ。いつもはお店にたくさんの魚が並んでいるのに、天気も悪くないのに、サーモンとか2、3種類しか置いていないくて。誰も買う人がいない、漁師さんも漁に行っても売れないから海に出ないという、すごい悪循環が生まれていて、できるだけ地元の魚を使って何かテイクアウト商品を作れないかなと思いました。
 地元のハモや地魚を中心に使ったんですが、散らさ寿司2、3個にハモ1匹使ってるんですよ。1日20個が限度で、それでも10匹以上おろして骨ぎりまでしないといけないので、手間を考えると利益は薄かったですが、1個1600円で販売しました。そしたら結構な数が売れて。それを買ったお客様が雲仙市の宿泊補助を使って旅館に泊まりに来てくれて、漁師さんも食べてもらえて、漁にいくモチベーションに少しでも繋がることができたら・・・結果的にいろんないい循環がお寿司をきっかけに生まれましたように思います。

島原半島の食材だけで構成できるような料理を作りたい

 橘湾はもともとハモが多かったそうなんですけど、地元では全然使われなかったり、料理ができる人が少なかったりで、捨てられていたそうです。でも東京の6分の1ほどの値段で仕入れらる。東京で修行していた時に比べると、サイズや本数が揃って仕入れられる日がないのが難しいところですが、できるだけ地元のものを散らさ寿司には使いたいと思いました。一時期雲仙の旅館の料理長さんとハモの取り合いをして。ハモの値段が上がったんです(笑)
 もともと地魚を使って欲しいという声が結構あったんですが、最近はいろんな人が直接連絡くれるようになってきて、そこで育ててるトラフグを使ってくれとか。南串で岩ガキの養殖をしてる人も一回食べてどうにかしてくれたらなって。最近やっとちょっとずつ声をかけてもらえるようになりました。
 この夏は「宝物プラン」というのを作り、島原半島の食材でメニュー構成したんですけど、今後は秋、冬、春って通年で島原半島の四季の食材だけで組めるように、もっと地元のいい食材を見つけたいと思っています。

移住者や地元の人たちとの交流は毎回発見がある

 移住してきた人や地元の頑張っている人、漁師さんとかと話す時間が増えてきて、本当に皆さん貴重な存在で刺激になります。そもそも小浜に帰ってきた時に知ってる人がほぼいなかったんですよ。最近はLion J の薫くんのお店に行った時に会う人たちとよく話しています。話すたびにプライベートも仕事に関しても発見があるんです。面白いなって。1人じゃ絶対息詰まるので、助かっています。
 あとは弟子とまではいかなくても、誰かに料理を教えながら、料理人を増やして、地元のイベントとかにも参加してみたいですね。散らさ寿司がきっかけで、ハモの講習会を開いてくださいって依頼も入っているので、もっと自分から外に出て、地元の食材の良さを料理を通して伝えていけたらと思います。


宮崎貴仁(みやざき・たかのり) 小浜町出身。福岡の調理師専門学校時代にNHKの調理師の卵が腕を競う番組に出演し、優勝。その後東京の有名和食店などで修行。実家の旅館富士屋の料理人として小浜に戻る。2020年5月地元の鮮魚を使った色鮮やかな「散らさ寿司」を生み出す。豊富な地魚や野菜を料理にして多くの人に届けたい…その誠実な姿勢が漁師や生産者のモチベーションにもつながっている。
http://ryokanfujiya.co.jp/

移住して1年半。小浜を存分に楽しんでいます

 移住してきて1年半ほど経ちました。小浜は私が中学生の時に、雲仙岳を超えて小浜を通って長崎に自転車で行った経験があって、雲仙から小浜に降りる坂からの海が見える景色が印象に残っていました。あとは空気が綺麗なところと工場がないところ、水が美味しいところ、そして2人とも酒が好きなので、酒と一緒に食べる魚が美味しいところを絞り込んで、全国を探し、最終的に小浜に決定しました。
 東京で出版の仕事をしたあと、実家の熊本に戻って電気屋さんやいろいろことをしましたが、もともと食の方にいきたかったんです。こちらに来る前は福岡市内にカレーのお店でカレーとスパイスの販売をしていたんですけど、体力的に忙しすぎて続かなくて、ネット販売に切り替えたんですよ。ネット販売だと環境さえあれば、どこに移ってもいいと思いました。
 小浜は基本的に歩ける範囲になんでもあるところが魅力的。こちらにきて40日間車を動かさなかったんですよ。銀行やスーパー、ケーキ屋さんもあるし、免許の切り替えも歩いていけました。あとはお魚。その日に魚屋さんにある魚を買って、「今日はエタリのパコラを作ろうか」って。パコラはインド風の天ぷらですね。手ごろな広さで住みやすい。小浜を存分に楽しませていただいています。

スパイスの調合は作曲と同じ

 スパイスの種類や調合は独学に近いです。出版社時代にインド、ネパール、スリランカの旅の本を書いたんですよ。インドではカースト制度などもあって、飲食店の奥の方にはなかなか入れてくれなかったので、スパイスの勉強は自分の味覚でいろんな店を食べ歩いて覚えました。
 私はもともと食品添加物がダメなんです。レストランをしていた時に、サラダが残るから食べようと思ったらドレッシングじゃないですか。自分でサラダに合うスパイスを作って食べてたんですよ。スパイスだと特に添加物も使わないですみますし、味覚にストレスを感じなくてすみます。結局はそのスパイスがきっかけで、スパイスの販売がスタートしました。
 調合自体はイメージで大体出来上がります。「調合は作曲と一緒だね」と言われたことがありますが、いろいろと組み合わせて試行錯誤したり、足したり引いたりしてとか、そのような作業はしたことがありません。ほとんど頭の中で組み合わせててぽっと出てきます。まだまだノートに溜め込んでいて、商品として出していないものもあります。そういう意味では数えきれないほど作曲していると思いますね。

来店もネット販売も増え、反響に驚いています

 こちらに来てからインターネットだけの販売だと思っていたら、1年もしないうちに口コミなんですかね、長崎市や佐世保市、諫早市などから毎日お店にお客様が足を運んでくださっていて、ありがたいことに今は売り上げの3分の1ほどを来客でしめるようになりました。口コミってすごいですね。これまでは長崎はネット販売の郵送先でも少なかったのに。
 あとは今、コロナウイルスの影響で自宅で料理をする人が増えたことと、テレビでスパイスの紹介などもあって、ネット販売の注文も増えました。妻が伝票を手書きするのをモットーにしているので、注文が多すぎて肩を痛めたほどです。スパイスを1日2キロ作っても追いつかなかない時もあります。反響の大きさに驚いています。

小浜の温泉熱を使ってスパイスを育てたい

 そういえば、お客様から友達になって小浜に呼んだ人もいるんです。その人が今度小浜に越してくるんですよ!小浜は若い人たちが頑張っているし、その人もきっといい仲間になると思います。同じ価値観、都会で暮らすことと違う生き方、生きるということがどういうことなのかっていうことを小浜の若い人たちはわかってらっしゃるから、その頑張りがそのまま小浜の活気になって欲しいなと思いますね。
 私たちも負けないくらいやりたいことはいっぱいあります。その1つが、これからインドでスパイスの輸入ができるか心配があるのと、気候変動の影響でスパイスの質が変わってきていることもあって、「地元でスパイスを育てられないか」と考えています。実際に何種類か育てたことはあるんですが、この辺は温泉熱をうまく利用すれば、燃料費を使わずに育つし、そういう栽培ができたらいいねって。最近、温泉熱を通してもらってアシュワガンダを育ててみたら、とんでもない育ち方をしたんです。栽培はコロナ後の世界では絶対ありですね。海外に輸入を頼るのではなく、国内でいろんなことをやっていきたいと思っています。


篠原正一・実千代(しのはら・しょういち、みちよ) 熊本県出身。身体がポカポカするようなスパイシーな香り漂う店内には約300種類の無添加のスパイスが並ぶ。小浜の自然や水、そして人にひかれ、2019年に移住。「スパイスの調合は作曲のよう」とインドでスパイスに出会い、独学で学んで熱心に研究する篠原さんの商品を求めて、県内外から店に足を運ぶ人も多く、2人は小浜町に新しいスパイスを与えてくれている。
http://bonga-spice.com/

一度東京に出て地元に戻り、移住者を通して感じた小浜のよさ

 高校はサッカーをしたくて長崎日大高校に行きました。その時は家業は継ぐかどうかはぼんやりとしか考えていなくて、都会を見てみたいという気持ちから、日大商学部に進学しました。洋服が好きだったので、そのまま東京で働こうかと思っていたんですが、家族が病気になったことが転機で、2019年に小浜に帰ってきました。
 戻ってきてあらためて感じたのは「人と人の距離の近さ」です。都会は人が多いんですけど、人をあまり気にしないところがあって。地元に戻り、家業を継ぐと、地元の人とある程度関わりを持たないといけないし、持つべきだと思っていたら、小浜には「移住者がこんなにいるんだ」ということに驚きました。自分と同じ世代の人や同級生は地元に今そんなにいなくて、県外に出ている人が圧倒的に多いんです。小浜に移住してきて、その人たちがしっかり商売をしている様子を見ると、自然や人や住みやすさとか、そういうのが小浜の魅力的なんだろうなと移住者の方を通して感じたと思います。

地元の食材を使ったジェラートを増やしたい

 店の雰囲気とかを「映える」じゃないですけど、わかりやすく色使いを統一したりして、もっとおしゃれさを追求した空間づくりはもちろん、常時14種類、全部だと約40種類ほどあるジェラートの数を、もっと増やしていきたいと思っています。原城トマトとか瑞穂の雲仙茶、人気の小浜の塩ミルクなどありますが、今は特に地元の食材のメニューを増やして、もっと生産者の皆さんの想いを形にできればなと思っています。
 最近だと梅を作りました。「スナックピッコロ」のママが作った梅のシロップのジュースを飲んだらすごく美味しくて、もしかしたらジェラートにできるかもしれないと思いました。梅みたいに今は仕事につながる出会いがおもしろいです。それを形にしてお客さんに届けて、「おいしい」って言ってもらえる瞬間が一番楽しいかもしれません。食材を作る人も訪れる人にも喜んでもらって、小浜を盛り上げられたらなと考えています。
 あとは店のオリジナルTシャツとかも作っていて、制作段階のものもあります。洋服が好きだし、東京で見てきたことや経験したことを取り入れて、店オリジナルグッズなども今後は作っていきたいと思っています。

「小浜を盛り上げたい」YouTubeを従兄弟と幼なじみと始めました

 実はYouTubeもやってるんですよ(笑)「オカモト・シェ・ダムール」の息子さんと「蒸し釜や」の従兄弟と3人で。店も近いし、ずっと家族ぐるみで仲が良くて、世代もバラバラで自分が一番年齢も下なんですけど、小浜を知ってもらうきっかけになればと思って撮影しています。
 YouTubeチャンネルの名前は「♨︎ばってん湯けむり隊」。自分たちも商売をしているので「会えるYouTuber」を目指していて、店や自分の自己紹介も兼ねて、くだらないこともたくさんしてますが(笑)小浜のこともこれからたくさん紹介していければなと思っていますので、見てみてください!

「みんなが帰ってきたい」と思える小浜を目指して

 移住してきた人たちを通して小浜のいいところを再認識したと言いましたが、小浜にはいろんな感性を持ってる人たちが来てくれて、本当とても刺激になります。食材のことも今は自分から探すというよりも、いろんな出会いを紹介してくださる機会も多くて。
 うちの店は、隣に海産物やお土産を置いているので、老若男女いろんな世代のお客さんがいらっしゃいます。ジェラートを通して、また食べたい、また来たいって思ってもらえるようにしたいなとも思いますし、あとはやっぱり、小浜で生まれたみんなが帰ってきたいと思える場所になって欲しい。いろんな人が集まる小浜だから、観光地としてもっと地域が一丸となって、発展していけるよう自分もこの店から頑張りたいと思います。


山下晃輝(やました・こうき) 小浜町出身。東京の大学進学後、2019年にUターンで戻り、ORENGE GELATOを継いだ。地元の生産者の思いを形にできるジェラート作りと店のオリジナルグッズを増やすことが目標。店を訪れるたびに変わらない山下さんの笑顔と地元食材を使った新しい味に出会える。いとこと幼なじみとYouTubeチャンネル「ばってん湯けむり隊」も開設中。
https://orangebay.jp/gelato/

友人の地元を訪れたことがきっかけで移住を決意

 小浜を初めて訪れたのは2012年のお盆休みですね。当時僕は学生時代の友人とシェアハウスをしていて、その友人の1人が、小浜食糧の息子さんだったんです。最初の夜に、そのころ県議会議員だった今の雲仙市の金澤秀三郎市長と話す機会があって、その当時小浜が進めようとしていた「地熱」について話をしたんです。そしたら、伊勢屋の草野肇会長を紹介されて。僕も事前に小浜のことを下調べして行っていたので、小浜をこういう風にした方がいいんじゃないかと自分なりの案を示したんですね。そしたらいろんな人を紹介してもらって。2週間後に今度は1人で小浜を訪れました。
 小浜はバイナリー発電が行われる機運が高まっていたので、地熱エネルギーで街を活性化させようとしていた「小浜温泉エネルギー」で活動したいとお願いして、2ヶ月後に小浜に引っ越して来ました。そこで知り合った京都大学の先生との出会いがきっかけで京都大学の大学院に入ることができました。なので、京都大学に入りながら小浜温泉エネルギーという2足の草鞋。それが2013年の1月です。その3ヶ月後に刈水庵がオープンして、その1週間後にバイナリー発電がオープンして。小浜がとても盛り上がっていた時期に小浜での活動を本格的にスタートさせました。

人から人へ小浜で広がっていったネットワーク

 でも当時の僕は自分の給料になるものがなくて、何か事業をとってこないと、と環境省の共同取り組み事業に資料を作って応募しました。それはバイナリーを旅館の人だけでなく街全体で話すためのもので、その予算がつきました。その後も環境省や経産省などいろんな事業をとってきました。そんなことをきっかけに、旅館の人たちだけじゃなくて、街全体の人とつながる機会が増えたと思います。
 初めて小浜に来た時もですが、呼ばれたらとにかく参加するようにしていたんです。刈水地区のワークショップの打ち上げや集中講座に参加した時に、城谷耕生さんや山崎超崇さんに出会ったり、「人参ハウス」という店によく行ってたんですけど、「ちくば整骨院」の竹馬さんが大抵いて、お店に人がくるたびに、「山東名刺、名刺」って言って、たくさんの人とつなげてくれて、伊勢屋の草野会長もそんな感じで、たくさん名刺をばらまいたのでだいぶ広がったと思います。
 地元の人たちが移住者が来て、いろんな刺激があったって言っていましたけど、僕も逆に草野さん夫婦やLion Jの獅子島くん、富士屋の宮崎くんたちの紹介で繋がることも多いので、Win-Winだと思っています。すごく勉強になっています。

約800のアイデアを詰め込んで具体化していく小浜を網羅した唯一の人へ

 2018年に街の新しい取り組みを支援するという長崎県の事業があることを、ちゃんぽん番長の林田さんから言われて、せっかくだから街のみんなの思っていることを見える化したいなって話をしたんです。その時、以前街づくりの共同取り組みで失敗をしたことを思い出したんです。大人数で協議会を作って、ワーキンググループも分けたんだけど、全然長続きしなかった。その失敗を繰り返したくない思いが強くて。できる人がみんなの思いをヒアリングしてまとめればいいと、結果的に街の250人以上の人から話を聞きました。仲のいい4、5人のグループを何グループも作って、時間を1時間半ごとに区切って、話を聞くことを繰り返しました。そして、それをこっちで編集して、取り組み案をまとめたのが「Obama ST. 2030(小浜ストリート)」です。 
 僕のパソコンの中には約800個のアイデアがメモ帳に書かれてあって、ウォッカ工房や廃校をサテライトオフィスにしたり、ドローンの教習所にするとか・・・みんなと集まって話をした時にそのメモ帳からキーワードを引っ張り出して、アイデアをさらに実現に向けて詰めていく。皆さんアイデアやネットワークをそれぞれ持ってるんですよね。ただ結局忙しかったり、時間がなかったりして実現できなかった。僕がその話を聞いて、アイデアとアイデアをつなげられる人になればと思っています。

地域の教育・研究・起業をする場所として。目標は小浜温泉大学の設立

 最終的には大学を小浜に作りたいというのが目標です。今活動していることは全て、その一環だと思っています。「Obama ST. 2030(小浜ストリート)」がその主軸になっていますが、小浜の皆さんの想いの強さがいい企画書へとつながったので、これは法人化してきちんとしようという話になりました。伊勢屋の大女将を代表にお願いして、小浜の歴史資料館の指定管理になり、製塩所という目玉を提げてリニューアルに向けて今準備を進めています。
 夜に古庄くんの喫茶に同世代の人たちが集まる「夜景色」のメンバー同士で1つのプロジェクトが生まれたこともあって、僕の理想の大学のイメージはそれに近いと思っています。地域の教育と研究、そして起業、新しいことが生まれる場所にしたい。組織ではなく、地域のみんなの大学なんです。自由に自分のアイデアを言えて、それを実現に向けて動かせるネットワークがある。そういう文化が街にできれば、自然といろんなものや楽しいことがどんどん生まれる。そういう街って面白くて、住みたいと思うじゃないですか。
 京都の友達にそんな小浜の未来の話をすると「めっちゃ楽しそうやね」っよく言われます。その通りです。めっちゃ楽しんでます(笑)


山東晃大(さんどう・あきひろ) 兵庫県出身。学生時代に小浜を訪れた際に、人から人へとんとん拍子につながりができたことで小浜町へ移住を決意。小浜温泉の地熱エネルギーの研究のほか、ネットワークを生かして街づくりも積極的に進める。小浜歴史資料館の再整備と製塩所の再現、そして小浜町に大学を作ることを目指す。小浜温泉の源泉の温度以上に熱い想いを持っている。